現実とのディスコミュニケーションを控えめに抑えたい人々におすすめの本。
ヒーローを待っていても世界は変わらない(文庫版)。この本は、というか湯浅さんは、なかなかバランスが取れすぎているように思う。自分が白か黒か的なとらえ方をしがちで、批判的で、知識も知的忍耐力(?)のようなものも欠如していることを照らし出されてしまう。
ぺらっとめくったところ(239p)の引用。
ぐうの音もでない。ただ信頼感と共感はそもそも「わからない」。その続き(239p-240p)。
私は社会運動をする予定はないのだけれど、「利害関係者間の調整を<政治>と言う」のであれば、まず、私は政治的な存在であらざるを得ない。
そして、自分は自宅に引きこもっているが、自分が社会的な存在であることを実は自覚していると思う。私は他人を変えたくない(に影響を与えたくない)し、自分自身変わりたくない。厚い信頼ではなく、なんというか素朴に信頼し合って変え合うみたいなのは理想的だと思う一方で、そういう体験をしたことがないし、その感覚が掴めない。前向きで主体的でないと厳しい気がする。そして自分はそれに当てはまらない。
だけど、たぶん、自分が腰を上げないことには、自分自身に関しては、始まらないと思う。
湯浅さんは文庫版に追加された補章の最後(189p)で民主主義はおもしろいことだと言っている。
なるほどと思うものの、私は他者に対して開いていないので、せやなとは言えない。遠くでおもしろそうなことをしている集団がいたとして、そこにてくてくと歩いて行って、屈託なく混ぜてと言うのはとても難しいことだと思う。
加えて、他者に対して開いていないこととも重なるけど、おもしろさや楽しさにも開いていないので、つまり前向きさや主体性に対して後ろ向きなので、切り替えることに抵抗がある。そもそも向いてない気もする。
それらを封印して感じないようにすることが引きこもりライフの生存戦略の一つなんではないかと思うし、そんなものが見当たらず得られる気もしない中で、それを欲し続けるのはなかなかタフなことだとも思う(見ようとしなかった、得ようとしなかった可能性については検討しない)。
そんなことを言っても、私が楽しみたいなら私が楽しむしかないし、それ以外にない。私は必死に主体性を隠してきたが、残念なことに(?)ちっぽけな主体性が確かにある。馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできないということわざを思い出す。厳しい世界だ。
ヒーローなんていらないから世界よはよ終わってくれと思うこともなくはないが、ヒーローのいないこの世界に終わりが来る気配はない<to be continued...>
ヒーローを待っていても世界は変わらない(文庫版)。この本は、というか湯浅さんは、なかなかバランスが取れすぎているように思う。自分が白か黒か的なとらえ方をしがちで、批判的で、知識も知的忍耐力(?)のようなものも欠如していることを照らし出されてしまう。
ぺらっとめくったところ(239p)の引用。
テレビや新聞の断片的な情報と、それを受け取った際の印象で自分の判断を形成し、それがきわめて不十分な情報だけに依拠したとりあえずの判断でしかないという自覚がなく、各種の専門家の意見に謙虚に耳を傾けることもなく、自分と異なる意見に対して攻撃的に反応する。
ツイッターでもブログでも、テレビのコメンテーターから中央・地方の政治家から、そして社会運動の中にも、このような態度が蔓延しており、信頼感と共感は社会化されず、不信感ばかりが急速に社会化される状態、他者をこきおろす者が、それが強ければ強いほど高く評価されるような状態、より過激なバッシングへの競争状態です。
ぐうの音もでない。ただ信頼感と共感はそもそも「わからない」。その続き(239p-240p)。
容易に転換しそうにないこの風潮をどうすれば変えることができるのか、私にはまだよくわかりません。ただ少なくとも、このような局面で社会運動が採るべき方向性は、バッシング競争で負けないためにより気の利いたワンフレーズを探すことではなく、許容量を広く取って理解と共感を広げていく、相手に反応して自分を変化させ続けていくこと、政治的・社会的な調整と交渉に主体的にコミットすること、そして自分という存在の社会性により磨きをかけていくことではないかと思います。
私は社会運動をする予定はないのだけれど、「利害関係者間の調整を<政治>と言う」のであれば、まず、私は政治的な存在であらざるを得ない。
そして、自分は自宅に引きこもっているが、自分が社会的な存在であることを実は自覚していると思う。私は他人を変えたくない(に影響を与えたくない)し、自分自身変わりたくない。厚い信頼ではなく、なんというか素朴に信頼し合って変え合うみたいなのは理想的だと思う一方で、そういう体験をしたことがないし、その感覚が掴めない。前向きで主体的でないと厳しい気がする。そして自分はそれに当てはまらない。
だけど、たぶん、自分が腰を上げないことには、自分自身に関しては、始まらないと思う。
湯浅さんは文庫版に追加された補章の最後(189p)で民主主義はおもしろいことだと言っている。
課題は多いですが、私は最後のところでは楽観しています。なぜなら、それはおもしろいことだからです。面倒くさくて疲れることを引き受け直した後に見えるおもしろさ。それが民主主義という体制を、常に挑戦にさらされながら生き延びさせてきた最大の理由なのではないか。そのおもしろさが日本社会の隅々まで共有される日が一日でも早く訪れることを願って、この補章を閉じることにします。
なるほどと思うものの、私は他者に対して開いていないので、せやなとは言えない。遠くでおもしろそうなことをしている集団がいたとして、そこにてくてくと歩いて行って、屈託なく混ぜてと言うのはとても難しいことだと思う。
加えて、他者に対して開いていないこととも重なるけど、おもしろさや楽しさにも開いていないので、つまり前向きさや主体性に対して後ろ向きなので、切り替えることに抵抗がある。そもそも向いてない気もする。
それらを封印して感じないようにすることが引きこもりライフの生存戦略の一つなんではないかと思うし、そんなものが見当たらず得られる気もしない中で、それを欲し続けるのはなかなかタフなことだとも思う(見ようとしなかった、得ようとしなかった可能性については検討しない)。
そんなことを言っても、私が楽しみたいなら私が楽しむしかないし、それ以外にない。私は必死に主体性を隠してきたが、残念なことに(?)ちっぽけな主体性が確かにある。馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできないということわざを思い出す。厳しい世界だ。
ヒーローなんていらないから世界よはよ終わってくれと思うこともなくはないが、ヒーローのいないこの世界に終わりが来る気配はない<to be continued...>